涙拭けよ

オシャレを『ファッション・健康・美容・ダイエット・ボディメイク』など様々な視点から考えるブログ。音楽や読書など筆者の趣味についても語ります。

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【感想】映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』は恋愛に不自由だった昔を思い出させてくれた

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2017年注目の映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』を早速見てきました!
終わった直後に劇場から『は?』というような微妙なリアクションが出たのも事実。

でもそれで片付けるのは個人的にはできませんでした。
古くて懐かしい『あの頃』に僕は戻れたんですよね。
万人に対して『絶対に外さない』とは決して言えない作品ですが、僕が得たものをあなたに伝えられればと思います。

 

 

文学的な作品で、分かりやすい感動作品ではない

ガッカリしてほしくないので未視聴の方に言いたいのは『サマー・ウォーズ』じゃねえよ!ってこと。
熱い鼓動、感動の涙、最後は主人公とヒロイン2人が結ばれて大団円!ってのは期待しちゃいけません。
ああいう物語の最後が閉じたものではなく、終わり部分が開かれていおり、視聴者に委ねるようなラストになっています。
エンターテインメントとして綺麗な分かりやすい終わり方ではないので、低い評価をする人の気持も非常によくわかります。

ただ、個人的にはあれはあの不明瞭かつ不思議な終わり方で良かったと思っています。
終わりがしっかりしていれば『パッケージ』としての作品としての素晴らしさは担保されたかもしれませんが、あのどうとでも解釈できるラストであったがゆえに、物語というある種擬似体験でありながらも僕の血肉のような『実(じつ)』になりました。
閉じてないがゆえに観客が各々自分自身を物語の中に生かすことができると思いましたし、僕も島田典道として及川なずなとどんな未来を今後描こうかという主体的な気持ちが見終わったあとでも残っています。
ほんとね、初恋のあの感覚に似ているんですよ。

人によっては、解釈とか能動的に感じにいかなきゃいけない『打ち上げ花火』に1800円も払うのはもったいないと思うかもしれません。
だから決して万人に『見てくれ!』とは言えないですね。

 

自由がない、田舎者の中学生の不自由な友情や恋愛に共感させられた

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はっきり言って、恋愛に不自由したことがない人には全く共感に値しない作品です。
都市部でモノや体験に溢れていて、鍵っ子で子供だけの時間が確保できて、気になる子にガンガンアピールできてっていう人には理解できないでしょう。

田舎者にとって花火大会というのは、親の目から離れて羽目を外せる絶交の機会であるとともに、気になる相手をを誘える年に一度の格好の言い訳なんです。
親の車がなければ最寄り駅へもアクセス出来ないような環境では異性を気軽に誘えませんし、そんな不自由な環境で一緒に映画を見たなんてなるともう学校中の噂になるほどの大イベントなんです。
花火大会ならせいぜい出店で軽く買うくらいでお金もかからないし、あの頃って何をするでもなく友達や好きな人とブラブラ歩いているだけで楽しいんですよね。
夜という普段は外で活動しないような非日常の世界。

僕が住んでいた田舎では三世代同居の昔ながらの家が多く、良くも悪くも躾がしっかりしていたために、友達と夜に遊び歩くなんて経験は年間でも祭りのときの1回くらいしかありませんでした。
基本的に毎日部活で、自由な時間なんてほとんどなかったなあ。
高校までそんな感じの生活だったので、恋愛も不自由でした。
それでもその環境を恨みたい気持ちはサラサラなくて、むしろあの時代のカネも時間も自由もなんにもない頃の恋愛が愛おしいくらいです。
社会人のいろいろな欲望とは全く違う次元の『心と心』が通うような、血の流れを感じるような尊い時間だったように思います。

 

『異性』を意識し『恋愛』がすぐそこまで来てしまった在りし日を思い出す

物語冒頭での祐介の気持ちってすごくよく分かるんですよね、好きという気持ちは確かにあるんだけど、いざあちら側からこられたときに固まってしまうような感覚。

もう形として出来上がっている『男の和』の中に女性の『性』としての存在が介入してくるってのは、小学校高学年から中学一・二年くらいの子どもにとってそれまで経験したことのないようなグラグラワナワナするような例えにくい感覚があるものです。
僕も初めて女の子に告白されたときは、なにか冷たい態度を取ってしまったことを覚えています。

ただ、その子がキライだったとかそういうことでは決して無く、今までの平穏な場所から未開のジャングルのような未知の世界に一人いきなり引っぱり連れて行かれたような恐怖感があったんですよね。
だからあの約束から逃げた祐介の気持ちが理解できてしまった自分がいます。
友情を壊すんじゃないかという気持ち、仲間に知られる恥ずかしさ、『異性』と関わる期待と恐怖感がグッチャグチャに掻き混ざったあの感情はあの時ならではのものだったと回顧しつつ、、、。

 

友人の抜け駆けに対しての嫉妬、好きな人から得られない承認と得られない自己肯定感

友達に彼女ができたりすると、寂しいような気持ちや先を越された気持ち、自分が異性に評価されないことの劣等感ような『気持ちの悪い』なんとも表現できない感覚があったのを今でも覚えています。

『もしも』の世界では、祐介がなずなと典道と一緒にいるところを見て不機嫌になったり、それが元で典道に辛く当たったりしていました。
あの態度はすごく分かるというか、自分の過去の恋愛体験を思い出しましたね。
「なんでアイツがオレの好きな◯◯と仲良くしてんだよ」っていう。
今思えば未熟だったと思いつつ、やっぱり自分が好きな人が他の男子と楽しげにしているのを見るのは辛かったなあ。

あの胸の空洞が痛むような不思議な感覚は今となっては懐かしい。
自分の好きな人からの承認というのは13歳位の若者にとってどんなものにも代えがたい承認ですし、自己肯定感というのは内側から湧き上がってくるというより他者からの肯定によるものが多かったように思います。

 

携帯電話もない時代の青春

今でこそ小中学生でも携帯電話を持つこともあるでしょうが、僕の時は家にドコモの電波も届かないような時代でしたからね。
携帯電話を持っているのはごく一部の不良くらいのものでした。

祭りに行くにしても学校で約束して、時間に間に合うように集合場所に行く。
いなくなったら本当に連絡なんてつかないし、今思えばすごい時代だったと思います。
恋愛も当然不自由で、連絡の手段が彼女の家に電話するしかない(苦笑)

なずなの母親と再婚相手が必死に追いかけてくる描写がありますが、本当に個人に連絡がつかないので、あのまま一生会えないってことも考えられないことではないんですよね。
だからあれくらい母親が半狂乱になって追いかけてくるのは理解できます。

あの電車のシーン一つとっても、今のスマホみたいに電車の路線検索なんてできないし、子どもであるがゆえに東京への物理的距離感も分からない。
そしてあの街には『自由』のすべてがあるって盲信しているんですよね。
僕の昔を思えば、東京もアメリカも変わらないくらい『遠い国』であったような気がします。
今となっては笑ってしまいますが、あの頃の子どもにとっては『世界』というものは果てしなく広いものだったんですよね。

 

『及川なずな』にみる少年期における大人びた女子への憧れ

13歳当時150cm程度の身長だった僕は、自分より10cmも身長が高い女子に憧れの気持ちを持ちながらも、どこかで『オレどうせチビだし』と劣等感を感じていました。
小学生で160以上ある友人が羨ましかったですね。
女子から「かわいい」といわれるのはそれなりに嬉しいものですが、恋愛対象として見られていない悲しさと、どこか見下されているような気がしていたのも事実。
男子よりも発育の早い女子のほうが先に『大人』になるのは避けられないことでは理論的には分かるものの、同じ教室にいたらやっぱり気持ちの上では対等でありたかった。
自分の好きな子が年上の先輩と親しげに話したり仲良くなっているのを見るのは悔しかったな。

この作品『打ち上げ花火』の中でみても、典道はクラスでも身長が低めであり、当然なずなよりも身長は低い。
彼が彼女に抱いている思いを正直に表現できなかったのは同級生への気恥ずかしさはもちろんのこと、なずなに対しての劣等感があったからだろうなあと。
それが彼女と長く同じ時間を共有することによって薄れていったように思います。
二人っきりの電車の中での会話の端々や、『花火は丸いのか平べったいのか』といった疑問に普段は大人っぽいなずなの幼さが凝縮されています。
学校のクラスとは違う2人だけの時間の共有が、典道の劣等感を解いていったのでしょう。
『もしも玉』で自分が作り出した世界という事実(状態)もまた、典道に主体性と自信を持たせたのかなとも感じました。

典道を見ていると、『大人びた同級生の女子』にかつての自分が抱いていた劣等感が溶けて心の底から『その人』に向かっていけるようになったあの気持ちを思い出しました。

 

家庭環境に問題がある生徒ほど大人で魅力的に映る不思議

反抗期だったり、親に対して反発する気持ちがある人ほど当時は『自立』したような大人な感じがしたものです。
家庭にいる大人の存在がしない子どもはなんとなく周囲より大人びていた印象がありました。
僕としてはそんな同級生がカッコよくて羨ましく映ったものです。

作中ではヒロインのなずながまさにそのような存在。
あの中学生離れした色気。
なんか学校に一人はあんな感じのミステリアス美人みたいな人いたよね。
なにか子どもの僕では解決できないような問題の最中にいて、彼女はその痛みを感じつつも強く生きていたり。

なずなも母親の男癖の悪さに巻き込まれて、彼女自身ではどうにもできない問題の中に生きています。
チカラもお金もない子どもにはどうしようもないんだけど、その大人の事情をただ見ていなきゃいけない典道の立場も難しいものでした。

 

『打ち上げ花火』の人物の服装から考えること

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なずなの大人っぽい白いワンピースと、典道の母親に買ってもらったようなサイズ大きめの赤Tにハーフパンツっていう子供っぽい服の対比が興味深かったですね。
自身のなさをTシャツのサイズで誤魔化してるんスよね。(若さ故の過ち)
そこが子どもの世界としてしっかりリアルで、中1で自分で選んで服買うなんて同級生はほとんどいなかった気がします。
一方、女の子はセブンティーンのようなファッション誌を読んでいて、若くて大人でオシャレだったり。

なずなのスーツケースが劇中に出てきますが、あれ一つとってもかなりファッション感度が高いですし、家もお金に余裕があることが伺えます。
分かりやすいブランドで言うと『グローブ・トロッター』でしょうか。
女性芸能人でも使っている人の多い人気アイテムです。
類似品が安く売られていますが、あの大きい家に母親のお金で住んでいることを思えば、買い与えられたと考えても不思議ではありません。

 

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祐介の服はちょいとオシャレに気の利いた母親が買っているような雰囲気のファッションです。
半袖パーカーに膝下丈のカーゴパンツといういい年をした大人ならなかなか業の深いセンスですが、あれを可愛くオシャレに着こなせるのは中学生だからこそ。
ファッションセンスや普段の言動からも、祐介は典道と親友でありながら半歩先を歩いているような存在なんでしょう。

 

おわりに:『日常』が永遠に続くと思っていたあのころ

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祐介の「夏休みが終わったらなずなに告る」っていうセリフがありましたが、あのころって無条件に『日常』がずっと続くと思っていましたよね。
なずなは夏休みが終わったらこの町にはいないのに、、、

次の機会とか、また来年とかこの先も今と変わらないという謎の前提の中に僕も祐介と同じように生きていたように思います。
実際は時間も好きな子の気持ちも確実に流れ移ろいゆくもので、自分の思惑どおりにはなかなかいかないものでしたね。
異性にだけでなく、友人や先生にもそうやって伝えられなかった、伝えておけばよかった『思い』はいくつあったのかと数えても数え切れません。

もう30歳も間近になると、経済・時間・場所・立場のあらゆることで不自由だったあの時間がとても大切で愛おしいものだったなあとしみじみ感じてしまいます。
いろんな後悔や、やり残したことも沢山ありますが、それも含めて10代前半にしかできない青春というのはやっぱり僕の中では特別なものでした。

賛否ある映画ですが、僕の中に『あの頃』をもう一度くれた大切な作品になりました。

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